Pyotr Ilichi Tchaikovsky(1840-1893) ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1840−1893)
 全世界で相当な人気を誇る、ロシアの生んだ最大級の作曲家。流麗なメロディーと絢爛華麗な管弦楽法に満ちており、芸術性も多くの人を満足させるに足るものである。
 彼の人生は耐えざる精神的苦悩と道徳的懊悩に彩られていたといってよいであろう。官吏の家に生まれた彼には当然のごとく官僚となることが義務付けられており、まだ幼い時期(10歳のとき=1850年)、に母から引き離され法律学校の寄宿舎に入れられた経験は彼の精神に暗い影を投げ落とした。音楽についていえば恵まれた家庭環境の下「音楽を趣味とする」ことは許されていたが「音楽を職業とする」ことなどは論外であった。しかし、法律学校在学中も卒業して官吏となってもこの、物思いに沈みがちな美しい青年(←1861年のチャイコフスキー。かなりの美男である)は苦悩や悩み、漠然とした不安や焦りから一向に開放されはしなかった。彼は思う。音楽に向かっているとき、とりわけ全霊を傾けて作曲をしているとき、そしてそれが人々に喜びをもたらすとき彼はたとえ短いものであるにしろ、どんなことにも勝る生の充実感を得ることができるのだと。このままではいけない。チャイコフスキーは官吏としての当時のロシアにおいては破格といっていいほど恵まれた職業をすて、音楽学校(1862年ぺテルブルク音楽院)に入学する。家族の反対は激しかったが、彼は自らの意思を押し通す。そしてそれは、チャイコフスキー自身にとってはもとより、何より彼の音楽作品のいくつかを古今の音楽史上の傑作として享受し得ている現代の我々にとって絶対的に正しかったと言える。
無名の若者が、いかに才気に溢れていようとも当時の貧困なロシア音楽界ですぐに名を成せるわけではない。しかしチャイコフスキーは地道に音楽的修養をつみ作品を発表し名を成していく。1874年のピアノ協奏曲第1番は音楽院の関係者ルービンシテインに酷評されるも、有名な指揮者ハンス・フォン・ビューローがこの作品とチャイコフスキーの力量を見抜き「アルゲマイネ・ムジ−クツァトゥンク」誌に彼の将来性とこの作品に寄せる期待を述べた文を掲載し、進んでこの曲を演奏会で取り上げ遠くアメリカにまでチャイコフスキーの名を広めたのでチャイコフスキーの自信と(少なくともこの作品に対する)労苦は報われた。  音楽家として、栄達しつつあるにもかかわらず、チャイコフスキーの苦悩、懊悩は止まらない。かなりの美男であるのもかかわらず、女性との距離を保ちそして、現在ではほぼ確定されているようだが、自身の同性愛的傾向に道徳的に苦しめられていた。音楽家として成功しつつありながらの自身の精神にまとわりつく重い枷を外そうとチャイコフスキーは1877年、ファンレターを送ってきた女性との結婚を決意する。その女性はアントニーナ・イワーノヴナ・ミリューコヴァという女性で二人は同年7月6日に結婚するがしかしこの結婚は、わずか数ヶ月で破綻した。二人っきりで過ごした時間となると実に1週間未満というお粗末なものであったらしい。この、新婚の段階での結婚の破綻はチャイコフスキーとアントニーナ、双方に責任があるものであった。チャイコフスキーは新婦の品性の下劣さに耐えかねて家を飛び出し、冬の川に飛び込んで自殺を図るが未遂に終わった。(後世の我々から見えれば、この後のチャイコフスキーの作品こそ傑作ぞろいであるから本当にこの自殺が「未遂で良かった」と思わざるを得ない)、新婦はもともとやや精神のバランスを逸していた人のようでチャイコフスキーが逃げ出したあと彼の親類の家に身を寄せ最初は同情されるもすぐに嫌われ者になった。その後各地を転々とし、亡くなったのは革命期(ロシア革命)だったといわれている。いずれにしろこの不幸な女性は長らく忘れ去られていたが近年伝記が出版されたものらしい。結局、離婚の手続きを踏まないままこのばかげた「結婚ごっこ」はごく短期間の内に崩壊したのである。
 このころ、チャイコフスキーはこのばかげた結婚の精神的痛手から早く立ち直るのに精神的のみならず経済的にも多大の功があったフォン・メックという有名すぎるパトロンを得ている。1876年の末にはじめての手紙があり、亡き夫の莫大な遺産を主に音楽関係に支出していた彼女がチャイコフスキーの作品のみならず人柄にも惹かれ援助を申し出ていたのである。いつも金に困っていたチャイコフスキーは喜んですぐにこの申し出を受け入れた。そして、結婚のこと、その結婚が自分の責任で失敗に終わったことなども打ち明け精神的安定剤の役割も果たしたのである。しかし、彼らふたりは決して直接に顔をあわせようとはしなかった。メック婦人は最初はチャイコフスキーに会うことをかなりの熱意も持って望んだがチャイコフスキーが固辞したため次第に諦めるようになった。チャイコフスキーの伝記作家エヴェレット・ヘルムによれば「もし両者があっても、特にチャイコフスキーにとって大いなる精神的苦悩と発作の原因となるだけであったろう」という趣旨のことを書いている。チャイコフスキーの最初の傑作交響曲−エヴェレット・ヘルムによればさらに「ロシアの音楽史における最初の偉大な交響曲」でもある−である交響曲第4番作品36について、チャイコフスキーはこれを「私たち(チャイコフスキーとメック夫人との、の意)の交響曲」と呼び手紙の中で詳しく自作の解説をしている。これはチャイコフスキーが自作について詳しく記した唯一に近い例だという。
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